コンピュータと人間


コンピュータの思考と人間の思考

まもなく21世紀が始まる。すでに私たちの身の回りにはコンピュータ化の波が急速に進んでいるが、 新しい世紀にはこの傾向が更に進行することは、ほぼ間違いない。 コンピュータは産業や学術研究の現場では必要不可欠になりつつあり、コンピュータの中核をなす超LSI半導体は私たちの身の回りの気づかないところにまで用いられている。 そしてパーソナル・コンピュータの普及により、誰もが日常生活の中でコンピュータを使うということを体験できるようになった。

コンピュータが今後どのように進化して行くのか、どこまで便利になっていくのかについて思いを巡らすことは可能であろう。 しかしこのようなコンピュータ社会の中で、それを使う人間自身がこれからどう変わっていくかということに目を向けている議論には、 めったにお目にかからない。技術が進歩し、知識がどれほど増大しても、それを使う人間自身はほとんど進化していないからだ。 相も変わらず感情と欲望に支配され、闘争、犯罪、自殺、そして人間の過誤に基づく事故は後を絶たない。 人間はこのように問題が大ありの生き物であるが、それでもコンピュータが及びも付かないような優れた能力を持っている。

かつてコンピュータは電子計算機とか電算機とか訳され、今でも不幸にしてそういう訳語を当てている辞書は多い。 コンピュータはすでに早くから単に数値を計算する機械ではなくなっており、文字言語から、音声・音楽、画像、通信に至るまで、 凡そソフトウェアが得意とするありとあらゆることを実行できる機械という意味で、情報処理マシンと言った方がよい。 たとえコンピュータ自身にとっては、それらすべてが0と1とからなる数値としか認識されないにしてもだ。

ところで情報処理能力という点でコンピュータと人間とを比較すると、多くの、とてもここでは書き尽くせない興味深い問題が提起されている。 このタイトルから直ちに想起されるのは、将棋やチェスのゲームでコンピュータと人間のプロが対戦し、コンピュータが遂に勝ったとか、 いやまだまだ人間の方が数段上だとかいう話だろう。知的ゲームという狭い土俵の中ですら、コンピュータは人間に勝てないのだ。 これが、例えば複雑な数値を計算する速さを競うとか、長大な文章の中から或る単語を見つけだすという作業とかで比較するなら、 コンピュータの方に分があるのは明らかだろう。

コンピュータは、或る1つの作業を順を追って処理していくという点で、ずば抜けた能力を発揮する。要するに直列処理である。 人間の思考方法はちょっと変わっていて、まず全体をざっとイメージし、それから重要な点を細部から取りだして認識し、処理しようとする。 その良い例が、手書き文字の認識、人の顔のイメージの認識であり、また或る小説の大意を要約して書くといったことに表れる。 コンピュータは今のところ、こうした作業が苦手だ。似顔絵では、実物の顔のバランスなどほとんど無視し、細部を極度に省略しても、 それが誰の顔なのか私たちには理解できる。ところがコンピュータは、オリジナルと複製との間に数量的にきっちりとした条件の一致が無ければ、 うんと言わない。融通が利かないのである。

小説のあらすじを要約する場合も、物語に多出する言葉を抜き出して並べればあらすじになるかというと、そうは行かない。 Aは朝寝坊して遅刻した、仕事でドジをして上司に叱られた、帰宅時に財布をなくした、というような展開(笑)を、 「Aのさんざんな一日」という表現で要約できるのは、今のところ人間だけの能力だ。英文を翻訳させてもぎこちないのは、 コンピュータは意訳が不得手だからだ。 イメージとか直観とかいったものを如何にプログラム処理できるかが今後のAI研究の課題だろう。

明らかにコンピュータと人間とでは、情報の取り込み方からして異なっている。人間は、 自分に必要と思われる情報だけを正確に取り込むということは普通しない。むしろ種々雑多な情報をざっと取り込んで頭の中にプールし、 その中から注意を引いた情報にアクセスする。人が外の景色を見るとき、いきなり或る対象に目を向けたりせずに、 まずざっと風景全体を見るようなものだ。人間がなぜこのような思考形式をとるのか、その理由について定説はない。 私の考えでは、それは人間が立って行動することに関係すると思われる。よく言われるように、 両目を開いた状態では片足で長時間立っていられる人でも、目をつむるとほとんど数十秒も立っていられない。 片目ではどうか?やはり両目で見ているときより早くぐらつき始める。 もし視野をうんと狭めて、例えば部屋の中の一点しか見られないようにすると、更に不安定だ。 つまり視覚でもってバランスを取っているのであり、そのために目は多くの情報量を必要とする。

要するに、人間の意識を特徴づけているのはバランス感覚であり、そこからイメージ、価値観、 質(クオリティ)、美意識といった人間独特の思考様式が生まれてくる。 一度に多くの情報を取り込まなければならないから、細部の認識については雑(曖昧)になりがちだ。 更に、人間の行動が偶然性に左右されやすいのも、雑多な情報の中からランダムに取り込もうとするためであろう。 人の行動に、「うっかり」や「ぼんやり」が付き物なのも、そのことと関係あるかも知れない。 しかしまさにこの点から、偶然の思いつきが偉大な発見や発明に結びつき、創造力ある人間の文化が生み出されている。

コンピュータがやがては人間の脳に匹敵する人工知能を獲得し、将棋で新手を思いつくのは無論のこと、 絵を描き、詩や音楽を創り、独創的なアイデアを提案し、更に、 学習によって自分自身のプログラムを作り自分を律する日が来るかも知れない。 SFとしては面白い話だが、そうなったとき、人間には何の価値があるのか?

むしろ私たちはJ. C. R. リックライダーと一緒に、 人間とコンピュータとの情報処理の仕方の違い、役割の違いを理解し、コンピュータと人間の共生を考えて行くべきだろう。 1つの仕事を短時間のあいだに早く正確にこなすといった、人間が不得手な仕事はコンピュータに任せよう。 それによって軽減された労力、解放された時間を、人間にしかできない創造的な仕事に振り向ければいい。 この場合には、コンピュータは言わばパートナーだ。コンピュータの思考は分析的・論理的であり、 人間の思考は総合的・直観的であると言うことが出来る。この違いを理解すれば、 コンピュータと人間のつきあい方はもっと良くなる。

例えば初期のコンピュータでは、人はいちいちキーボードからコマンドを入力して処理を要求しなければならなかった。 つまり人間をコンピュータに合わせていたわけだ。それが現在のGUI環境になると、デスクトップ、アイコン、フォルダ、ファイル、 ウィンドウ、ボタンといったバーチャルな指標によって次におこなわれる動作のビジョンを持つことが出来るようになり、 ユーザが次にどのような動作をしても対処できるようにイベント駆動型のプログラム処理が行われるようになった。 つまりコンピュータが人間の直観的な動作に合わせるようになってきたわけで、これをヒューマン・インターフェースと言う。

コンピュータの利用によって、仕事の能率を上げるだけでなく、これまで出来なかった事柄まで可能になる。 しかしそれによって人間を怠け者にすることが目的なのではく、労力の削減と時間の効率化によって得たものを別のことに振り向けなければならない。 コンピュータを使えば便利になるよ、という側面ばかりが論じられがちだが、コンピュータによって労働や生活の質が変わり、 社会と個人との関係が変わり、ひいては人間そのものが変わらなければ意味がない、というのが私の考えだ。 もちろん1台のコンピュータによって出来ることは僅かでしかない。しかし多くのコンピュータがネットワークで結ばれたとき、その力は強力なものになる。

インターネットと社会

20世紀という時代は、産業の発達、テクノロジーの進化、知識の増大が社会を巨大にしてきた。巨大な国家、巨大な資本、 巨大化したメディアを考えれば容易に想像が付くだろう。社会が巨大になった分、個人は相対的に小さく、無力になり、 社会と個人との距離も非常に遠くなった。こうした環境下では、個々人は組織の一部分として、組織に身を寄せ、 与えられた職能のみを果たすことに自らの居場所を見いだすしかない。巨大化した社会では、分業システムが著しく細分化され、 それぞれの分野での専門家が重視されるようになった。 かつてのレオナルド・ダ・ヴィンチやベンジャミン・フランクリンのように多方面に才能を持つ万能型の人間は、分業社会では余分な存在でしかない。 政治は政治家に、病気は医者に、学問は大学に、餅は餅屋にすべてお任せしよう。 人がその与えられた分を越えて、他のことに興味を持ったり口を出したりすべきではない。−確かに20世紀という時代は、 それでうまく機能してきた面がある。

しかし20世紀も終わり、新世紀を迎えようとしている今、こうしたシステムの限界や問題点が見え始め、新しいモデルへの模索が始まっているように思える。 個人が組織に負んぶされていれば良い時代は終わり、色々なことに対処できる知識や能力を自分で身につけなければならなくなってきている。 社会もまた、そうした時代に向けて変わろうとしている。規制撤廃とは、縦割り社会の弊害を取り払うことだ。情報公開とは、知識を専門家の独占物ではなくすることだ。 しかしいくら情報が公開されても、それについての基礎知識がなければ専門用語で埋め尽くされた情報を理解できない。 例えば医療の分野でのインフォームド・コンセントにしても、患者の側が医学について知ろうと努力しなければ効果が薄いようなものだ。

もちろん様々な分野の専門書は出版されているけれども、一般の人がそれを読んで知識を得るにはやや敷居が高い。 よほどの動機がなければ、人は努力してまで自分の専門外のことについて知識を持とうとはしないものだ。このちょっとした面倒くささが、 人が多方面に関心を持つことの妨げとなっている。しかしコンピュータを使って誰もが情報にアクセスできるようになれば、 例えばボタンクリック1つで自分が知らなければならないことを知り、そのための準備をすることも可能になる。 この簡単さが、とても重要だ。オープンなコンピュータネットワークとしてのインターネットにあっては、 人は情報から情報へサーフィンするのに時間と労力を必要としない。人と人とのつながりも、これまでのような国や地域、 業種や社会階層といった縦割り社会のつながりから、共通の関心を持つ人びとのより自由な結びつきに変わるだろう。

個人がこれまでのように自分の専門外のことには無知でいても良かった(無知であらざるを得なかった)時代は終わる。 情報処理機械としてのコンピュータの使用によって、個人が非常に力を付けて行く。例えば従来のようなメーカーと消費者の区別は曖昧になり、 生産者対消費者の二極構造は崩れるだろう。情報の受け手が同時に発信者でもあるようなメディアでは、 従来型のマスメディアのように情報の一方的な垂れ流しによって大衆を操作することは難しくなるだろう。 有権者であると同時に納税者でもある一般庶民は、政治や行政の分野で何が行われているかをもっと身近に知り、 それをチェックする手段を持つだろう。

「だろう」を連発したが、無論インターネットが考えられる形での理想的な変化を招来するかどうかは、楽観を許さない。 インターネットは当初、営利を目的としない人々の実験的な試みとして発達したが、最近では商業ペースの誘導が目に付くようになっている。 ビジネスの参入は、インターネットを発展させる上で必要不可欠だけれども、そちらが優先されるとインターネットの質が変わっていく可能性もある。 特に近年は初心者ユーザの急増により、メールが使えてショッピングが出来ればいいのよ、といった(誘導されやすい)消費者マインドのユーザの占める割合が多くなっているだけに、 不安がある。

パソコンが消える?

このところ気になるのは、インターネットの次世代ツールなるものについて必要以上に騒がれている感があることだ。 最近では、テレビやゲーム機、携帯電話でもインターネットへのアクセスが可能になり、その使い勝手も向上してきているので、 パソコンは必須ではなくなった。私は、それらの登場によってユーザの選択肢がふえ、応用範囲が広くなるということであれば、 大いに結構だと思う。ところが世間が言っていることは、どうもそうではないらしい。次世代携帯電話などのツールがパソコンを市場から駆逐し、 もうパソコンは要らなくなる、数年以内にパソコンは姿を消すといった、かなりいびつな論調なのだ。 これであの厄介なパソコンともおさらばできる、早くなくなれ、といった軽口も目にする。

パソコンが特に初心者にとって使い方が難しいとは、よく言われることだ。 だから最初からインターネットを目当てとしてパソコンを買った初心者がインターネットで情報を見られるようになるまでにかなり手間と時間がかかることになる。 それなら、携帯電話で手っ取り早くインターネットにつなげさせ、手っ取り早く広告を見させ、手っ取り早く商品を買わせる方が望ましい、 という発想になるのだろう。パソコンやOSの分野でアメリカに大きく水をあけられた日本の業界が、 得意分野である携帯ツールやゲーム機で巻き返しをはかろうとする狙いも見て取れる。それが悪いとは言わない。 但し、それがパソコンに取って代わると言っているのは、ちょっとおかしい。

上の論調の中にある誤解は、多分パソコンをインターネットのためのツールとしか考えていないことにあるのだろう。 最近のマスコミ上の広告も、パソコン=インターネットという扱いをしていて、近年のパソコン業界の堅調がインターネットに支えられているのは事実だろう。 業界もそのことを見越して、最近のパソコンにはインターネットボタンなるものまで付いている機種もある。しかし、パソコンを単にインターネット用ツールと考えるのは間違いだ。 パソコンを古くから使ってきた人には当たり前のことだが、インターネットはパソコン上で情報アクセスする方法の1つに過ぎない。

パソコンが難しいと言われる最大の理由は、パソコンが万能ツールであることにあると、私は思う。 ゲーム機やワープロ専用機のように機能が特定されていれば、たとえそれらにインターネットを閲覧するブラウザの機能が付加されていても、 おのずから必要な機能、それを使うための知識は狭められ、迷い道にはまる割合は少なくなる。 ところがパソコンは、入れたソフトの数だけ機能があると言って良く、そのためにオペレーティング・システムとのやりとりや、 ソフトによって違う使い方という問題が出てきて、初心者には判りづらい、ということになるのだ。 それでも慣れてしまえばどうということはないが、とにかく何でもかんでもその日に楽に使いたいという初心者に迎合することに急な最近の風潮は、 それではいけないらしい。しかしこれは、今後改善できない問題ではないはずだ。

パソコンが万能ツールであるということは、情報にアクセスするだけでなく、情報を創る道具でもあるということだ。 私たちはパソコンで文章を読んだり、音楽を聴いたり、映像を見たり、プログラムを使用したり出来るだけでなく、 文章を作り、音楽を作り、画像や映像を作り、プログラムを作ることが出来る。それならそれぞれの機能に特化した専用機を使えばいい、 1つの機械にそんなに沢山の機能を入れる必要があるのか、という批判もある。 しかし例えばインターネット上に自分のホームページを立ち上げる場合を考えてみよう。 まずホームページのデザインと文章をHTMLにまとめるためのソフトが必要だし、文章だけでは寂しいので画像を入れようとすれば、 そのためのソフトも必要だ。コンテンツを豊富にしようと思えば思うほど、それに見合った機能がその場で必要になる。 それらをバラバラの専用機で作るなど、かえって不便だ。だからパソコンの多機能性をうっとうしいと感ずるか、便利で面白いと感ずるかは、 あなたが情報をただ受け取るだけのネガティブな人間か、自分から情報を作り発信する意欲を持つポジティブな人間かによって決まると言っていい。

パソコンは、ソフトがなければただの箱と言われるように、OSを初めとするソフトの取り込みによってその動作が決まる。 ここで言うソフトとは、いわゆる実行形式ファイルだけでなく、文章・画像・音声音楽などのデータを含めた情報全般を指していると考えていただきたい。 言い換えればソフトの取り込みによって、カスタマイズもできれば便利にすることもでき、無限に顔を変えることが出来る。 情報の取り込みは、キーボードやマウス、或いはプログラムを使って自分で作ることもできるが、フロッピーやCD−ROM、 デジタルカメラやスキャナーなどの外部入力装置から取り込む方法に加え、インターネットやパソコン通信、或いはLANによって他のコンピュータから取り込むことも出来る。

コンピュータにとって通信とは、レジスタとメモリ間の通信を初めとして、プログラムとプログラム、プログラムとOSなど、 入力・コピー・出力を含む情報のやりとりすべてを言うのであり、回線を通じた他のコンピュータとの情報のやりとりも、 その延長線上にある。インターネットとは世界中のコンピュータを1つに結んだネットワークであり、 それによって情報の源はハードディスクの限界を超えて無限大となる。情報を発信する側をサーバ、情報を要求し受け取る側をクライアントと言うが、 これとて一方通行ではない。例えば、あなたが今使っているパソコンもサーバになり得るのだ。 こう考えると、インターネットというものを1台1台のコンピュータを離れて考えることは出来ないし、 テレビ番組のように何か一方的に送られてくるサービスのように考える最近の風潮が如何に見当はずれかが判る。

だから、パソコンをインターネットに接続するための1つの手段と考えるのは、本末転倒なのだ。ケータイやゲーム機でもインターネット出来るよ。 よろしい。ではそれらを使ってデータやプログラムを開発できるのか。作成した文書をプリンタに出力できるのか。 私などは15インチ以上のモニタでないと見づらいと思う方だが、その点に対応できるのか。 ダウンロードしたデータやプログラムをハードディスクに保存できるのか。それらがすべてクリアできるなら、それはすでにパーソナル・コンピュータだ。 ケータイではない。だからケータイがパソコンを駆逐するという言い方は、論理矛盾になる。

これからはシン・クライアントの時代だから、ハードディスクは要らなくなる、という議論がある。 シン・クライアントとは、OSを初めとしてすべてのプログラムやデータをネットワークを通じてサーバから読みとるという一種のネットワーク・コンピュータで、 クライアント側に情報を置く必要がないからハードディスクも要らなくなり、ハード面も含めてコストが削減される上、 データやプログラムを常に共有しなければならない企業などでは、1台1台の端末内のデータを更新する手間が省けるので、 それがまたコスト削減につながるというのだ。実はネットワーク・コンピュータの発想はかなり以前からあったが、 近年パソコン自体のコストが下がっているので、コスト削減のメリットは以前ほどではなくなっている。 但し最近携帯型端末の普及でハードディスクに変わる環境が必要となっているので、再び脚光を浴びているということだろう。

シン・クライアントは確かにクライアント側の装備を軽くできるので、企業内でのトータルコスト削減という点からは注目に値する。 しかしその分、サーバ側の負荷が大きくなる。「シン・クライアント(thin client)」とは同時に「ファット・サーバ(fat server)」になるということだ。 現在のネットワーク環境でさえ如何にサーバ側の負担を軽くしようかと努力しているのに、それとは正反対の方向を追求しようというのだから手放しでは喜べない。 パソコンは年々、メモリを増強することによって高速で快適な実行環境を実現してきたのに、 ネットワーク型コンピュータではコストとの絡みからメモリが再び問題になる可能性がある。

もっと心配なのは、もしネットワークとの接続が落ちたとき、どうするかということだ。パソコンの場合は、仮にネットワークにつながらなくなっても、 ローカルディスク内で作業を進めることが出来るが、シン・クライアントではサーバとの接続が絶たれるや、もう何もできなくなる。 いくら通信インフラを太くしたところで、不特定多数のユーザがどっと押し寄せてアクセスすればサーバというのは必ずダウンするものだ。 だからシン・クライアントは、企業向けのオプションとしてならいいが、一般ユーザ向きではないような気がする。 いくらネットワークばやりの時代とはいえ、やはりローカル環境はあった方がいい。その方が自分なりのカスタマイズもしやすいし。

話を前に戻すと、ケータイに代表される次世代インターネット・ツールが単にユーザの選択肢をふやすのではなくて、パソコンに取って代わる、 パソコンを不要にする、と声高に叫ばれている理由は何か。パソコンの難しさに悩まされた人たちの怨念か? それとも、そうすることが日本経済再生の唯一の切り札だからか?インターネットが始まった頃は、ボランティア精神を持つ人たちの実験的な試みという感じがあったが、 最近はもっぱら業界ペースで話が進められ、今やユーザの大半を占めるに至った初心者がそれに乗せられているのが気にかかる。 もし携帯ツールがインターネット利用の主流になると、インターネット自体が様変わりするかもしれない。 ウェブ・ページの中身をじっくり読みとろうとするよりも、限られた時間の中で、自分に必要と思われる情報とサービスにだけアクセスする使い方がメインになり、 メジャーな商業ページしか生き残れない可能性だってあるのだ。

世界中のパソコンが対等に結ばれ、それぞれが情報の発信者でもあれば受け手ともなるというインターネットのヴィジョンに、 私はとても民主的な構図を夢描いていた。しかしこれからは、そうでなくなるのか。強大なサーバと無力なクライアント。 ニュースと天気予報をチェックし、広告を見て商品を買い、ヒット曲をダウンロードし、オンラインバンキングし、ゲームして終わるインターネット。 ただただ便利さを消費するだけのインターネット。しかし人々の声はどこへ?

これは、その場で商品を注文したり自分の必要な情報をリクエストする便利さはあるにしても、 情報の一方通行という点で、従来のマスメディアと変わるところがない。インターネットが社会全般を変えるなど夢物語となる。 「そう。君たちは消費者なのだ。お金を払って商品やサービスを消費してさえいればいい。万能機械を使って個人が力を伸ばそうなどと考えたりするな。 メーカーとユーザの二極構造を崩してはならない。既成のシステムや力関係を変えるなど、とんでもない...」。

そんな言葉が空耳のように聞こえてくるのだが。

[2000/ 5/20]



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