インターネットとマイノリティ


最近久々に時間が出来て、海外のWWWサイトを見て回る機会があった。私の場合(英語かドイツ語で書かれたページならば何とか読むことが出来るので) どうしても欧米のサイトが中心になりがちだが、読むことが出来る言語で書かれていれば出来るだけ様々な国のサイトを見るようにしている。

その結果感じたことは、どの国も数年前に比べWWWサイトの数が非常にふえ、内容やジャンルも充実し、技術的にも高度になってきているということだった。 かつてはインターネットと言ってもごく一部の人々の実験的な試みという印象だったのに、最近では社会のあらゆる層の人々が情報発信し、 またアクセスすることの出来る便利なメディアとなりつつあることを感じさせるまでになっている。

今後この傾向が更に進んで行けば、世界中のすべての知識や情報を自宅に居ながらにして読むことが出来る(かつて J. C. R. Licklider がそう呼んだような)「未来の図書館(Libraries of the Future)」がやがて実現するかも知れない。 そのときには、インターネットを利用することもホームページを公開することも何ら特別なことではなく、テレビを見たり新聞や本、雑誌を読んだりするのと同じような普通のことになっているだろう。

インターネットの膨大なデータベースの中には、政治・経済はもとより、芸能・娯楽や生活・文化に役立つことから、自然科学や社会科学に至るまで、 ありとあらゆる種類の情報が蓄積される。従来のように印刷・出版というプロセスに至らないような過渡的な情報も、そこから得ることが出来る。 学術研究一つをとってみても、研究の進歩は日進月歩であるのに、従来の印刷物を用いた公開方法ではそのスピードに追いつかず、 そのために適当な資料が見つからなかったという問題も解消するだろう。また紙媒体では困難だった、映像や音声を用いたアプローチも可能になる。 また情報を見つけだす作業も、ハイパーリンクやサーチエンジンを用いることにより、格段に早くなる。

もちろんインターネットは単に図書館のように知識や情報にアクセスできるだけでなく、アクセスしたユーザの側が問いかけをしたり、 情報を提供したり、品物を取り寄せるといった働きかけが可能だ。自宅に居ながらにして商品を購入できるヴァーチャル商店街のような試みも今後発達していくだろう。 様々な行政手続きや、チケットの予約、オンラインバンキングもその場で出来るようになる。

インターネットが文字の発明、印刷術の発明に次ぐ、第3の情報革命と呼ばれるのも頷けるだろう。 かつて15世紀のヨーロッパで活版印刷が開発されたとき、当初は主にラテン語の聖書ばかりが印刷されたために、ヨーロッパ諸国の言語はやがてラテン語になってしまうのではないかと言われたことがあった。 ところがその後は各国の口語に訳された聖書が印刷され、更に世俗の文学なども印刷されるようになったので、 印刷術は当初の危惧とは正反対に英語、ドイツ語、フランス語など各国の標準語の確立を促し、近代国民国家の発達の土台にさえなった。

パソコンやインターネットに批判的な人々の理由の一つに、インターネットを用いたコミュニケーションでは英語が優勢であり、文化生活が英語化してしまうのではないかというのがあるが、 印刷術が始まった頃の批判と似ていて面白い。もしインターネットが生活に密着したメディアとなるなら、決してそうはならないだろうし、むしろ少数言語とか方言とか、 従来のマスメディアから見捨てられた言語を救う横のつながりを生み出すことさえ可能だ。 (そうした試みの1つが "LOWLAND-L" にある。)

私が注目したいのは、インターネットは誰もが知りたい人気のある事柄や、最新の情報ばかりを扱うものではないという点だ。 それだけならば従来型のメディアでも事足りる。インターネットがユーザ参加型のメディアであるということは、 使い方によってどのようなテーマにも応用可能であることを意味する。 インターネットと言えばともすると新しい情報ばかり扱うものと思われがちだけれども、古くからあるもの、歴史や文化に関わりのあるものを扱い、過去と現在の橋渡しになるようなコンテンツがあっても不思議ではない。 インターネットの特長の1つに数えられる「情報の即時性」は、データの追加や修正と言った場合に活かされるからだ。

先日、私は外国の音楽関係のサイトをネットサーフしていて、偶然にも昔懐かしいメアリー・ホップキンとドアーズのホームページを発見した。 ("The Mary Hopkin Friendly Society""james douglas morrison memorial page") メアリー・ホップキンもドアーズも1970年前後に活躍したミュージシャンであり、もう伝説的存在となっていると言って良く、そのメモワールを30年後の今、確認できたのは嬉しかった。 上に挙げた2つはどちらもファンの作ったホームページであり、1つはイギリスの、もう1つはドイツのサイトだが、どちらもミュージシャンの貴重なデータベースとなる内容を含んでいる。

こうしたサイトを見るに付け、ワールドワイドウェブの豊富な世界を支えているのは紋切り型の百科全書的知識ではない個人のバイタリティであるとの感慨を強くした。 インターネットでは、情報の発信者と受け手との間に、従来のマスメディアにあったようなギャップが無くなる。 ユーザは、情報の受け手であるばかりでなく情報の発信者となることが出来る。これは非常に重要なことだ。 今までのように限られた人たちだけが情報を一方的に流すという形がなくなれば、例えば学問研究の世界はもっと一般の人々に開かれたものになるだろうし、 産業の分野ではメーカー対消費者という2極構造が崩れて、消費者が商品開発のプロジェクトに参加するという形態も生まれてくるだろう。

インターネットが従来型のメディアと異なるもう一つの点は、マイナーな情報を切り捨ててしまわないことだ。営利中心のメディアにあっては、テレビの視聴率に代表されるように、多数の人々に人気のあるものだけが残される。 たとえ或る人々には貴重な情報であっても、多数を制しないものは消えていく運命にある。出版物の場合にも、売れ行きの良くない本や雑誌はやがて姿を消す。

近年、急速にふえてきているコンビニエンスストアにしても、狭い店舗面積の中に限られた商品を置かなければならないから、売れない商品は棚に置いておかれない。 コンビニの台頭によって古い型の商店が消え、更にコンビニの中でマイナーな商品が消えていく。コンビニで売れるかどうかが最近では大量消費財の消費動向を決め、 メーカーの生き残り競争にも影響していると言われる。従来型の経済では、見込み生産をした商品がもし売れ残って在庫リスクを抱えることになると、 生産と流通にかかるコストを考えただけでもマイナーな商品は利益を生み出さないのだ。

それが商品経済の淘汰原理であると言ってしまえばそれまでだが、売れ行きの良くない商品が必ずしも悪い商品と言えるだろうか? すべてを売り上げや人気度で決めてしまうとマイナーな価値のあるものは残ることが出来ない。それは結果的に消費者・ユーザにとっての選択の幅を狭めることにもなる。 消費者の需要が商品流通を決めると言われながら、実はそれによつて消費者自身の生活も決められることになる。 人と同じものを食べ、人と同じものを読み、人と同じものを使う画一化された大衆像が作り出される。

インターネットは様々な可能性を秘めたメディアだが、私はそれがこうした偏った傾向を補完する場になり、マイナーなニーズをも満たすものになることを期待している。 例えばネットビジネスの分野では、従来型の販売網を持たないメーカーがインターネットのホームページを利用した受注生産によって業績を伸ばすという例がアメリカでは一般化しているが、 今後は日本でもそうしたインターネット販売が本格化するだろう。この新しい販売形態では、消費者が自分の希望に合った商品を探し出したり発注したり出来るから、 よりユーザ・フレンドリーになるだけでなく、従来の大量生産システムでは生き残ることの出来なかったマイナーな商品も活路を見いだすことになる。

IT革命と言うと、とかく新興企業の一発成功物語という側面からとらえられがちだが、実は上に述べたような経済構造の転換という側面もあることを見逃すべきではない。 もちろんインターネットはまだ若いメディアであり、今後どういう方向に展開していくか、予断を許さない面はある。 ホームページの人気トップ10とか、定番サイトとか、相も変わらず従来型メディアの発想を踏襲して人気のあるもの、 メジャーなものにばかり目を向けさせようとする手法がインターネットの世界にも出てきている。更に、 最近はやりの i モード携帯端末のように、小さな画面の中で手っ取り早く自分のほしい情報だけを見るような使い方がもしインターネットの主流になってしまうと、 ホームページをじっくり吟味するような見方は後退するだろうし、インターネットの中身そのものが変わっていくことにもなるだろう。

[2000/ 5/10]



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