教 育


パソコンの売れ行きが落ちいてるとはいっても、一頃の加熱したブームが一段落しただけで、 パソコンの普及自体は今後も続いていくだろう。学校教育でもパソコンを導入しているところが多くなっている。 パソコンは、テレビと違ってユーザーの目的に応じたカスタマイズが可能なので、 カリキュラムに組み込みやすく、教育現場に向いていると思う。

ただ一つ心配なのは、パソコン教育が低年齢層に適用されたとき、従来の、紙と鉛筆を使った教育、 モニターの中のバーチャルな世界ではなく肉眼で見て触れる世界の中で体験する教育の間でバランスがとれるのか、 という点だ。というのも私たちの世代にとって、パソコンはあとから任意で入ってきた道具だ。 こういう便利な道具がなかった頃に習得した生活様式との間でそれなりにバランスをとることができる。 しかしこれから、なかば強制的にパソコンの中で育っていく子供たちにとって、事情は全く異なるからだ。 コンピュータのことは何でも知っているが、漢字や熟語を正しく書けない−−もっと問題なのは、 知識や知力に優れているが、情操面が劣っているという子供にならないかだ。

徳育という言葉は嫌いだが、優しさ(見せかけだけでなく)や思いやり、自然や弱いもの、小さいものを 愛するといった心は人間にとって一番大切であるに違いない。ところが機械をいじるだけでは 情操とか情緒とかは育たない。技術は人に「いかに?」を教えるが、「なぜ?」を教えない。 「いかに?」とは方法でありメカニズムであるが、「なぜ?」は意味や目的や価値に関係する。 「なぜ?」に目を向けることが欠落すると、目的のためには手段を選ばない人間になる危険性がある。

最近の日本人にはともすると、人間を「理科系」、「文化系」、「体育会系」というような言葉で グループ分けしたがる傾向がある。「私は理科系で、○○さんは文化系だ」などと言って 納得したような気になっているのだ。私は人間をこのような単純な言葉で画然と分けることはしない方がよいと思う。 その人の専門分野が何であろうと、知識や興味や趣味は広く持つ必要がある。人の生き方や考え方が余りに 専門化され、特化されると、個人は矮小化する。「私は専門が技能職なので、政治や社会や文化のことはよくわかりません」 では、操り人形にされるだけだ。高度成長期の日本では、人はそれぞれに与えられた専門職のことだけを一途に考えていれば よかった。だがこれからは、それではいけない。個人が大きくならなければ、やっていけないのだ。

話を教育に戻すと、パソコンをあまり低学年から無理に導入する必要はないのではないかと思う。 マルチ機能を持ったこれからのパソコンには確かに無限の可能性があるが、飽くまで道具だ。 道具を使うことの面白さを知る前に、それを何に使うべきなのかをしっかり見極める必要があるのだから。

[1997/12/?]



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